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4.2

平日の夜にただ果物を食べたりしてるときにしあわせをかんじる。なんかちいさいころ、お風呂はいったあと宿題しながらテレビ観てたときみたいなかんじだからかな。



4.7

普段あまり接することのない絵師の方々の世界は、奥ゆかしさの中にいいね数やフォロワー数、売上などの数字の実力主義的な側面と矜持も垣間見え、絵師の世界の荒野を感じた。利益率への意識も勉強になりました。ほかのかたの作品と自分の作品が並ぶのも久々だったので、対象としてみれたのもよかった。作家さんの制作や興味のあることについてきけたのもよかった。わたしってなんかぬるま湯だなあ



4.7

学生のとき秀がとれた数少ない講義は文化人類学だった。別の学部向けの比較文化論や異文化間交渉論なども実習を抜けてこっそりききにいった。でも時が経ったいま、多文化共生なんて考えれば考えるほど容易く口にすることができない。それは自分の失落なのかもしれない。


↑というのを消したけどメモとして再掲。だいたいはじめから多文化共生とかいえるほど別に立派でも良いやつでもないし失落ってなんか大げさだった。でも露悪に走るのも違うとおもうのでなんかいいかんじになりたい次第である。もちろん成績も学部いちねんせーのテストの成績なんで、ほほえましい目で見てください!


4.9

絵を描く行為には(少なくとも私は)自分を超越的な立場にして画面を支配する側面が含むとおもう。絵画の諸要素を必ずしも管理しすぎなくてもいいが、ある程度把握していく必要もある。地図や図形は事物や空間を把握し別のかたちにおきかえてみせる術。なにか絵を描き上げることは選択された表現・図法や記号、支持体、顔料、展色材、筆、意味などを一致団結させたり、うねりあう様をそのまま繋ぎ止める術に思える。

そんな絵画の諸要素みんなとわたしで、絵画空間を築きあげることを元々内向的なところも相まりわたしはひとり壮大に心に夢見ていたが、しかし果たしてそんな大それたことを自分ひとりができると考えるのは次第に傲慢にも感じられた。

というより、私はそのような絵画のロマンに酔うどころか飲み込まれることさえあり、自分で描くもの・ことを設定し突き進む勇気も足りない。たとえるなら映画の撮影現場に漠然と感動しまくるけど、別に自分が撮りたいものはない人みたいな…?

多くの映画は複数人の協力で作られるように、絵画は諸要素の組み合わせででき、要素のインタラクションを筆者は楽しむ側面もあるが、わたしは一応人間ということで人間のインタラクションにも目を向けることが絵の開拓の想像力に繋がるのではないか?とも考えるようになっていった。映画が必ずしも監督だけで出来るわけではないように画家だけが絵をつくるのではない(いろんな意味で)。まあよくある流れではあるが、そんな感じで 絵に近しいお仕事をし余暇にちまちまなんかつくって、それにひとりあーだこーだがんばってへりくつをこしらえ、自分を正当化しようとしたりしている。。

はあ。なんか多分そんなかんじだよ。。


人間のインタラクションとかいっているが、演劇とかダンスとかバンドとかそういうのはなんかちょっと向かないし、けっきょくのところ絵とかそういうのがすきらしい。。。


↑昼に書いた文を読み直した。たぶん、へりくつが悪いのではない。私は色んな人のへりくつをきくのが好きだし、誰だってなにかしらへりくつをもって生きている気がする。でもわたしはへりくつ屋さんとしてもものづくり屋さんとしても全体的にすごくアマチュアだなあとおもった。



4.10

昨日はいろいろと書いてしまいましたが、こうして制作を続けていられるのも観てくださるみなさんや、支えてくださる方々のお陰だと思います。普段の仕事もしっかりとがんばりながらこれからもコツコツと続けていきたいとおもいます。よろしくお願いいたします。


4.11

キルヒナーの額縁に焦点をあてた展覧会が、スイスのキルヒナー美術館でやっていたのか


4.12

自分は凡庸だとかを作家はたまについつぶやいたとしても、作品のネタにするのは今やあまり見込めないともおもう。その作家が凡庸かどうかなんて言われなくても見ればわかるし、たんに作家は言うことでスッキリして許されたいってところもあると想像する。でもそんな作家・作品は個人的には嫌いではなくむしろ好きだ。言えば誰もが凡庸なところがあるから鑑賞者の慰めにも励ましにもなる。でも、そんな作家だらけになるとなんか悲惨な気もする。だから自分も凡庸だけど、限られた既存の凡庸作家枠の牌を取り合う道にも進むわけにはいかないような気がする。


4.15

宮沢賢治の「どんぐりと山猫」を読んだ。

なんか最近、どんぐりが気になる。


4.16

「どんぐりと山猫」について。読みながら登場人物に感情移入したり、反省したりした。宮沢賢治ってすごいなあとおもった。細部の描写もひとつひとつ読みがいがあって、子供に読んで欲しい童話のような気がする。

でも私は今単純にこのお話を良いと言えるのか悩む。

この物語は競争や優劣にとらわれず生きることの大切さが書かれているという解釈を読んだけど、実際に大人になって生きていると競争としかいいようのない局面にあい、そこから降りれないことも多々ある。降りずにやり遂げることが大事なときもあるとおもう(私は何事もすぐ降りがちなので物語と別で反省)

しかも裁判ともなればどんぐり達は黙るしかなかったことも、簡単に仲なおりできないことも、想像できる。子供のときなら素直に受け入れて日常に活かせそうなことも、大人になったらむずかしいこともあるんだなあと考えていた。

子供のころ、家族でどこかの山(たぶん鹿児島か宮﨑らへん)に植えたどんぐりの苗は今どうなってるのかなあ。


4.17

どんぐりと山猫。主人公だけ人間(まとも風)であと動物とか植物とか滝を人間みたいな振る舞いする様子で描いてるの(馬車別当はもともと人間だが表現が多分あやうい)って、もしかしてだめ(差別みたいないみで)なのかな。。。でもたしかにそういうのをさけるためにもわたしも絵の中にあまり人間を描かないでいる、、が、わたしは人間、、、(こんぽんてきなもんだい)

だいたい怪獣の表現の起源もまずい。。。。怪獣にたいして私は他者という表現をつかいがちだけど、かつ自己投影だったりもすると思う。でもそれだけではだめなきもする。。。(起源というか怪獣の表現がはらむもんだいのこと)

この問題は前々から意識していて、人間を間接的にちらつかせた展開として、雪だるまがある、のだ。


4.20

今更なんだけど、サカナクションの「怪獣」をきいて、めっちゃよかった。

イイ!!!


4.25

メールとかLINEとかTwitterとか、日常の誤字がほんとーにおおい

朦朧

マリリン朦朧

3.28

最近通ってるコウシンキョク陶芸教室ゆかりのご縁で、平山さんから展示に呼んでいただいた。ピクチャーレール用フックを模した作品について、フックアップという語と芥川龍之介の小説をなぞらえつつ、お釈迦さまや悪人のかんだたではなく、悪人に助けられながらも同時にお釈迦さまに遣われる「蜘蛛」と「糸」のようなものに最近の関心があるのかもしれない、みたいな短い文が載ってたりする。

2.2

さぼっていた半年分のおうちの事務的なことをした。まだ途中


2.3

オランジュリー美術館の湾曲した壁面にほとんど一体化したパノラマビューのモネの睡蓮は張り込みとか額装とか施工もどうなっているのだろう?

鳥って例えばスズメとカラスとハトはふつうに街を歩けば(微妙な距離感で)同居していたりするけど、どんな気分なんだろう?


2.5

最初の怪獣の絵は、ルネ・マグリットの「脅かされる暗殺者」のパーツを入れ替え差し替えするところから始まったことや中原祐介の「密室の絵画」を思い出してた。


2.6

展覧会のプレスなどでよくみかける「 ︎ ︎〇〇な××で、 ︎ ︎▲▲する、<作家名>の空間を、この機会にぜひご高覧ください」という文。構文はこれに限らないけど、実際に自分でちゃんと書くのはむずかしいので読むと勉強になる。絶対観に行かなきゃ…!となる場合もあれば逆に陳腐な印象になったり…。あとちょっと大喜利のようで楽しいという側面もある。


2.7 

お酒の代わりにコーラを飲むのに多分はまった。ノンアルビールも飲んでいたが、わたしの場合「本当はビールを飲みたかった自分」がむしろ前景化してだんだん心が曇ってくる…。。そしてそんなに飲みたかったのならもう飲めば良いじゃんという結論にいたり、結局ビールを飲むことになる。

でもコーラだとそうならない。単においしい。休肝したという達成感も得らえる上に飲んでもよっぱらわないから時間が増える!翌朝も快調。コーラさいこぅ



2.8

そういえばあるギャラリーがアートフェアに出るために所属していない作家を自身のWebサイトに無断で載せてそれが作家にバレて作家が怒ってるという話をした動画をみた。ピーター・シンガーさんの「究極の選択」というのをおもいだした。倫理と私益が対立する局面。

ピーターさん「私たちはまさに、何をするのが合理的なのかを確信できずにいるのである。なぜなら、私益と倫理との衝突が非常に根本的なものである場合、理性にはそれを解決する方法がないように見えるからである。」

ピーターさん「こんなときどんな選択をすればいいのか?」


2.8 

絵画と縁幅の比率。現代ではよっぽどでない限り、作品の額は既成の竿の選択肢から選ばれる。だから画像を観るだけでも、作品と縁幅との比率から作品そのもののサイズは示唆される。言い換えれば、絵画のボリュームゾーンとなるサイズを超えて大きくなるほど縁幅の比率は低くなっていきがちな気がする。今日は19世紀以前の多様な作品をまとめて観た。ここでは前述の認知はことごとく裏切られるようだった。大きな作品に自分が飲み込まれてしまいそうなくらい巨大な縁がついていて、それは小さなサイズの額のデザインをそのままリサイズしたように見えることもある。でも意外な作品に細い縁がついていたりする。絵画と縁幅の比率についてなんらかの認識を得るには私はもっとたくさんの作例をみなければならないだろう。ただ今日は、額縁がついていないティルマンスの作品とほとんど同様の鑑賞体験を額縁がついた絵画をとおして経験したことが印象に残った。

もちろん大型の作品は大型の額でないと支えられないので、単純にこう書くのはあやういのかもしれないけど。



2.11

シルヴィア・プラスって絵も描いてたんだ

The Creative Tension Between Vitality and Fatality: Illuminating the Mystery of Sylvia Plath Through Her Striking Never-Before-Revealed Visual Art https://www.themarginalian.org/2017/08/17/sylvia-plath-one-life-smithsonian-visual-art/ 


2.14

新美術新聞の休刊さみしい



2.15

そういえば先日ぐうぜん話題の中に出て、「ロビー活動」という言葉を教えてもらった。そのときは根回しに似た印象をもったけどそのあと調べたら色々違うみたいだ。いずれにせよだれかがなにかを叶えるため行動の知恵なんだとおもう。「目標」とか「ビジョン」を叶えるのってとてもたいへんなんだなあ(当たり前)


2.16

ミルクフォーマーを入手したのだけどめっちゃいい。ふわふわカフェラテとかココアさいこー。


2.17

春の兆しをかんじるとしあわせになる!菜の花のからしあえとか


2.22

むかしのゆうめいなひとの日記にはしばしば当時の人間関係などが書かれている。そして実情はわからない。それらは未来に残されることに自覚的である場合もあれば、もっと迂闊に残ってしまったものもあるだろう。いずれにせよそれらは書かれてから受け手に届くまで今ではずいぶんな時差が起きている。

たとえば、InstagramやXなどで知人との交流をやたら掲載することは関係性をコンテンツ化することだともいえる。だからそういう慣習のある人たちの空間には、そういうものを求める人が集まる。それにとやかくいう必要はなく、その楽しさや面白さもあるだろう。でもどちらかといえば個人的にはいやな記憶もあったり、相手のSNSの使い方だけの理由で関わるのに気が進まない人もいる。本来はのどかなはずの人間関係に、よけいな警戒心やストレスを与えることがあるってことだとおもう。でも逆に相手のことを知れるってことでもあるのかもしれない。

わたしはわたしであれこれ書いてみたいことが出てくることがある。日々の中で考えたことや感じたこと。そのなかにはいわゆるプライベートなこともでるだろう。表現をしたいということ、かつそれを公開したいという顕示欲の自分勝手な側面。

例えば歌手の⚪︎⚪︎と付き合うと歌詞のネタにされるぞ的な話はありがちだ。そういうのが好きな人同士が集まるのかもしれないとはいえ、内心、いや事実と違うんだけど…とかうーわ最悪…と感じてる人がどこかにいるのかな。歌詞には名前は書かれないけど。その場合の誤配は結果的によくない誤配なのかなぁ

そういうことをおもいながらも、色々と試みた結果、やっぱり個人的には感情とかをコンテンツ化していくのはちょっといやだし、だめだなっておもう。自分には未熟なところがある。だから失敗も日々たくさんあるけど、そんな感じでがんばりたいとおもう。わたしは今のような表現活動を続けるかわからないなとも内心おもっている。

今日はアンディ・ウォーホルとポール・ゴーギャンの日記をつまみ読んだ。


2.22

サマセット・モームの回想記を読んだ。モーム曰く「わたしは職業的作家だから、職業的に有用なもののみを読むのである」。時間って有限だし、それは当たり前のことみたいだけど案外むずかしくも感じる。「職業的に有用なもののみを読む」ってなんだろう?今日は本を減らす目的で本棚を整理していたけど全然判断できなかった。修行が足りないのかな。

とはいえ昔よりは自分がなにに関心がある(ない)のかの輪郭がおぼろげにみえてきたようにもおもう。その輪郭とは、進めるほどにピントの細部が合うたぐいのものと、もうひとつは、その集積の角度を少しかえたときにでるモアレのようなぼやぼやしたものがあって、単一では成り立ちずらいような気がする。


2.24

私小説の起源を遡ると日記文学があるらしく試しに日記という名目で文章を書いてみている。私が新芸術校で最終的に投げかけたのは私小説的表現にまつわる問題提起だったけどそれは新芸術校の受講生の作品がそういった表現に偏っていたからだけでなく、そのような表現を含む自分自身の作品への問いでもあった。

世間的にも日記が前から流行っている。蜻蛉日記は暴露本の元祖と言われることがあるように、ともすれば日記は暴露ツールのひとつにもなる。暴露はいかんぞという話ではなくわたしが私小説的的表現に感動した経験や自分がそのような表現にいたる動機を遡ればそこにあったのは暴露とは別のものではあったとおもう。


2.24

わたしの作品ってバラバラだなぁっておもっているけど、きのう広告のお仕事されてた方に作品をみていただいたら中村さんのトンマナありますねっていっていただけてうれしかった。そもそもトンマナという言葉自体知らなかったので勉強になった。。


2.28

最近は事前情報をみて行こうと決めた展示をピンポイントで観るばかりだったけど、久しぶりに、あるエリアでやってる展覧会を地図の情報をたよりにとりあえずひたすら観てまわってみるということをして、なんかよかった。


2.28

メモ。作家が作品でえがこうとする対象が抽象的すぎてなんなのかわからなかったり、浮世離れしすぎていると、観る人にうまく届かなかったり、場合によっては反感をかわれたりこともあるような気がする。

たんなるレトリックだけ問題かといえばそうでもないのかもしれないけど、頓呼法ではなく、わたし(あなた)に呼びかけてほしい、誰の話なのか明確に言ってくれないとよくわからないよという声もある場合がある気がする。

でもきっとそうじゃなくてもいいはずだとおもう。どうやって届けるか

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