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2025年2月

  • 中村紗千
  • 4月29日
  • 読了時間: 7分

2.2

さぼっていた半年分のおうちの事務的なことをした。まだ途中


2.3

オランジュリー美術館の湾曲した壁面にほとんど一体化したパノラマビューのモネの睡蓮は張り込みとか額装とか施工もどうなっているのだろう?

鳥って例えばスズメとカラスとハトはふつうに街を歩けば(微妙な距離感で)同居していたりするけど、どんな気分なんだろう?


2.5

最初の怪獣の絵は、ルネ・マグリットの「脅かされる暗殺者」のパーツを入れ替え差し替えするところから始まったことや中原祐介の「密室の絵画」を思い出してた。


2.6

展覧会のプレスなどでよくみかける「 ︎ ︎〇〇な××で、 ︎ ︎▲▲する、<作家名>の空間を、この機会にぜひご高覧ください」という文。構文はこれに限らないけど、実際に自分でちゃんと書くのはむずかしいので読むと勉強になる。絶対観に行かなきゃ…!となる場合もあれば逆に陳腐な印象になったり…。あとちょっと大喜利のようで楽しいという側面もある。


2.7 

お酒の代わりにコーラを飲むのに多分はまった。ノンアルビールも飲んでいたが、わたしの場合「本当はビールを飲みたかった自分」がむしろ前景化してだんだん心が曇ってくる…。。そしてそんなに飲みたかったのならもう飲めば良いじゃんという結論にいたり、結局ビールを飲むことになる。

でもコーラだとそうならない。単においしい。休肝したという達成感も得らえる上に飲んでもよっぱらわないから時間が増える!翌朝も快調。コーラさいこぅ



2.8

そういえばあるギャラリーがアートフェアに出るために所属していない作家を自身のWebサイトに無断で載せてそれが作家にバレて作家が怒ってるという話をした動画をみた。ピーター・シンガーさんの「究極の選択」というのをおもいだした。倫理と私益が対立する局面。

ピーターさん「私たちはまさに、何をするのが合理的なのかを確信できずにいるのである。なぜなら、私益と倫理との衝突が非常に根本的なものである場合、理性にはそれを解決する方法がないように見えるからである。」

ピーターさん「こんなときどんな選択をすればいいのか?」


2.8 

絵画と縁幅の比率。現代ではよっぽどでない限り、作品の額は既成の竿の選択肢から選ばれる。だから画像を観るだけでも、作品と縁幅との比率から作品そのもののサイズは示唆される。言い換えれば、絵画のボリュームゾーンとなるサイズを超えて大きくなるほど縁幅の比率は低くなっていきがちな気がする。今日は19世紀以前の多様な作品をまとめて観た。ここでは前述の認知はことごとく裏切られるようだった。大きな作品に自分が飲み込まれてしまいそうなくらい巨大な縁がついていて、それは小さなサイズの額のデザインをそのままリサイズしたように見えることもある。でも意外な作品に細い縁がついていたりする。絵画と縁幅の比率についてなんらかの認識を得るには私はもっとたくさんの作例をみなければならないだろう。ただ今日は、額縁がついていないティルマンスの作品とほとんど同様の鑑賞体験を額縁がついた絵画をとおして経験したことが印象に残った。

もちろん大型の作品は大型の額でないと支えられないので、単純にこう書くのはあやういのかもしれないけど。



2.11

シルヴィア・プラスって絵も描いてたんだ

The Creative Tension Between Vitality and Fatality: Illuminating the Mystery of Sylvia Plath Through Her Striking Never-Before-Revealed Visual Art https://www.themarginalian.org/2017/08/17/sylvia-plath-one-life-smithsonian-visual-art/ 


2.14

新美術新聞の休刊さみしい



2.15

そういえば先日ぐうぜん話題の中に出て、「ロビー活動」という言葉を教えてもらった。そのときは根回しに似た印象をもったけどそのあと調べたら色々違うみたいだ。いずれにせよだれかがなにかを叶えるため行動の知恵なんだとおもう。「目標」とか「ビジョン」を叶えるのってとてもたいへんなんだなあ(当たり前)


2.16

ミルクフォーマーを入手したのだけどめっちゃいい。ふわふわカフェラテとかココアさいこー。


2.17

春の兆しをかんじるとしあわせになる!菜の花のからしあえとか


2.22

むかしのゆうめいなひとの日記にはしばしば当時の人間関係などが書かれている。そして実情はわからない。それらは未来に残されることに自覚的である場合もあれば、もっと迂闊に残ってしまったものもあるだろう。いずれにせよそれらは書かれてから受け手に届くまで今ではずいぶんな時差が起きている。

たとえば、InstagramやXなどで知人との交流をやたら掲載することは関係性をコンテンツ化することだともいえる。だからそういう慣習のある人たちの空間には、そういうものを求める人が集まる。それにとやかくいう必要はなく、その楽しさや面白さもあるだろう。でもどちらかといえば個人的にはいやな記憶もあったり、相手のSNSの使い方だけの理由で関わるのに気が進まない人もいる。本来はのどかなはずの人間関係に、よけいな警戒心やストレスを与えることがあるってことだとおもう。でも逆に相手のことを知れるってことでもあるのかもしれない。

わたしはわたしであれこれ書いてみたいことが出てくることがある。日々の中で考えたことや感じたこと。そのなかにはいわゆるプライベートなこともでるだろう。表現をしたいということ、かつそれを公開したいという顕示欲の自分勝手な側面。

例えば歌手の⚪︎⚪︎と付き合うと歌詞のネタにされるぞ的な話はありがちだ。そういうのが好きな人同士が集まるのかもしれないとはいえ、内心、いや事実と違うんだけど…とかうーわ最悪…と感じてる人がどこかにいるのかな。歌詞には名前は書かれないけど。その場合の誤配は結果的によくない誤配なのかなぁ

そういうことをおもいながらも、色々と試みた結果、やっぱり個人的には感情とかをコンテンツ化していくのはちょっといやだし、だめだなっておもう。自分には未熟なところがある。だから失敗も日々たくさんあるけど、そんな感じでがんばりたいとおもう。わたしは今のような表現活動を続けるかわからないなとも内心おもっている。

今日はアンディ・ウォーホルとポール・ゴーギャンの日記をつまみ読んだ。


2.22

サマセット・モームの回想記を読んだ。モーム曰く「わたしは職業的作家だから、職業的に有用なもののみを読むのである」。時間って有限だし、それは当たり前のことみたいだけど案外むずかしくも感じる。「職業的に有用なもののみを読む」ってなんだろう?今日は本を減らす目的で本棚を整理していたけど全然判断できなかった。修行が足りないのかな。

とはいえ昔よりは自分がなにに関心がある(ない)のかの輪郭がおぼろげにみえてきたようにもおもう。その輪郭とは、進めるほどにピントの細部が合うたぐいのものと、もうひとつは、その集積の角度を少しかえたときにでるモアレのようなぼやぼやしたものがあって、単一では成り立ちずらいような気がする。


2.24

私小説の起源を遡ると日記文学があるらしく試しに日記という名目で文章を書いてみている。私が新芸術校で最終的に投げかけたのは私小説的表現にまつわる問題提起だったけどそれは新芸術校の受講生の作品がそういった表現に偏っていたからだけでなく、そのような表現を含む自分自身の作品への問いでもあった。

世間的にも日記が前から流行っている。蜻蛉日記は暴露本の元祖と言われることがあるように、ともすれば日記は暴露ツールのひとつにもなる。暴露はいかんぞという話ではなくわたしが私小説的的表現に感動した経験や自分がそのような表現にいたる動機を遡ればそこにあったのは暴露とは別のものではあったとおもう。


2.24

わたしの作品ってバラバラだなぁっておもっているけど、きのう広告のお仕事されてた方に作品をみていただいたら中村さんのトンマナありますねっていっていただけてうれしかった。そもそもトンマナという言葉自体知らなかったので勉強になった。。


2.28

最近は事前情報をみて行こうと決めた展示をピンポイントで観るばかりだったけど、久しぶりに、あるエリアでやってる展覧会を地図の情報をたよりにとりあえずひたすら観てまわってみるということをして、なんかよかった。


2.28

メモ。作家が作品でえがこうとする対象が抽象的すぎてなんなのかわからなかったり、浮世離れしすぎていると、観る人にうまく届かなかったり、場合によっては反感をかわれたりこともあるような気がする。

たんなるレトリックだけ問題かといえばそうでもないのかもしれないけど、頓呼法ではなく、わたし(あなた)に呼びかけてほしい、誰の話なのか明確に言ってくれないとよくわからないよという声もある場合がある気がする。

でもきっとそうじゃなくてもいいはずだとおもう。どうやって届けるか

 
 

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