2025年4月
- 中村紗千
- 4月29日
- 読了時間: 6分
4.2
平日の夜にただ果物を食べたりしてるときにしあわせをかんじる。なんかちいさいころ、お風呂はいったあと宿題しながらテレビ観てたときみたいなかんじだからかな。
4.7
普段あまり接することのない絵師の方々の世界は、奥ゆかしさの中にいいね数やフォロワー数、売上などの数字の実力主義的な側面と矜持も垣間見え、絵師の世界の荒野を感じた。利益率への意識も勉強になりました。ほかのかたの作品と自分の作品が並ぶのも久々だったので、対象としてみれたのもよかった。作家さんの制作や興味のあることについてきけたのもよかった。わたしってなんかぬるま湯だなあ
4.7
学生のとき秀がとれた数少ない講義は文化人類学だった。別の学部向けの比較文化論や異文化間交渉論なども実習を抜けてこっそりききにいった。でも時が経ったいま、多文化共生なんて考えれば考えるほど容易く口にすることができない。それは自分の失落なのかもしれない。
↑というのを消したけどメモとして再掲。だいたいはじめから多文化共生とかいえるほど別に立派でも良いやつでもないし失落ってなんか大げさだった。でも露悪に走るのも違うとおもうのでなんかいいかんじになりたい次第である。もちろん成績も学部いちねんせーのテストの成績なんで、ほほえましい目で見てください!
4.9
絵を描く行為には(少なくとも私は)自分を超越的な立場にして画面を支配する側面が含むとおもう。絵画の諸要素を必ずしも管理しすぎなくてもいいが、ある程度把握していく必要もある。地図や図形は事物や空間を把握し別のかたちにおきかえてみせる術。なにか絵を描き上げることは選択された表現・図法や記号、支持体、顔料、展色材、筆、意味などを一致団結させたり、うねりあう様をそのまま繋ぎ止める術に思える。
そんな絵画の諸要素みんなとわたしで、絵画空間を築きあげることを元々内向的なところも相まりわたしはひとり壮大に心に夢見ていたが、しかし果たしてそんな大それたことを自分ひとりができると考えるのは次第に傲慢にも感じられた。
というより、私はそのような絵画のロマンに酔うどころか飲み込まれることさえあり、自分で描くもの・ことを設定し突き進む勇気も足りない。たとえるなら映画の撮影現場に漠然と感動しまくるけど、別に自分が撮りたいものはない人みたいな…?
多くの映画は複数人の協力で作られるように、絵画は諸要素の組み合わせででき、要素のインタラクションを筆者は楽しむ側面もあるが、わたしは一応人間ということで人間のインタラクションにも目を向けることが絵の開拓の想像力に繋がるのではないか?とも考えるようになっていった。映画が必ずしも監督だけで出来るわけではないように画家だけが絵をつくるのではない(いろんな意味で)。まあよくある流れではあるが、そんな感じで 絵に近しいお仕事をし余暇にちまちまなんかつくって、それにひとりあーだこーだがんばってへりくつをこしらえ、自分を正当化しようとしたりしている。。
はあ。なんか多分そんなかんじだよ。。
人間のインタラクションとかいっているが、演劇とかダンスとかバンドとかそういうのはなんかちょっと向かないし、けっきょくのところ絵とかそういうのがすきらしい。。。
↑昼に書いた文を読み直した。たぶん、へりくつが悪いのではない。私は色んな人のへりくつをきくのが好きだし、誰だってなにかしらへりくつをもって生きている気がする。でもわたしはへりくつ屋さんとしてもものづくり屋さんとしても全体的にすごくアマチュアだなあとおもった。
4.10
昨日はいろいろと書いてしまいましたが、こうして制作を続けていられるのも観てくださるみなさんや、支えてくださる方々のお陰だと思います。普段の仕事もしっかりとがんばりながらこれからもコツコツと続けていきたいとおもいます。よろしくお願いいたします。
4.11
キルヒナーの額縁に焦点をあてた展覧会が、スイスのキルヒナー美術館でやっていたのか
4.12
自分は凡庸だとかを作家はたまについつぶやいたとしても、作品のネタにするのは今やあまり見込めないともおもう。その作家が凡庸かどうかなんて言われなくても見ればわかるし、たんに作家は言うことでスッキリして許されたいってところもあると想像する。でもそんな作家・作品は個人的には嫌いではなくむしろ好きだ。言えば誰もが凡庸なところがあるから鑑賞者の慰めにも励ましにもなる。でも、そんな作家だらけになるとなんか悲惨な気もする。だから自分も凡庸だけど、限られた既存の凡庸作家枠の牌を取り合う道にも進むわけにはいかないような気がする。
4.15
宮沢賢治の「どんぐりと山猫」を読んだ。
なんか最近、どんぐりが気になる。
4.16
「どんぐりと山猫」について。読みながら登場人物に感情移入したり、反省したりした。宮沢賢治ってすごいなあとおもった。細部の描写もひとつひとつ読みがいがあって、子供に読んで欲しい童話のような気がする。
でも私は今単純にこのお話を良いと言えるのか悩む。
この物語は競争や優劣にとらわれず生きることの大切さが書かれているという解釈を読んだけど、実際に大人になって生きていると競争としかいいようのない局面にあい、そこから降りれないことも多々ある。降りずにやり遂げることが大事なときもあるとおもう(私は何事もすぐ降りがちなので物語と別で反省)
しかも裁判ともなればどんぐり達は黙るしかなかったことも、簡単に仲なおりできないことも、想像できる。子供のときなら素直に受け入れて日常に活かせそうなことも、大人になったらむずかしいこともあるんだなあと考えていた。
子供のころ、家族でどこかの山(たぶん鹿児島か宮﨑らへん)に植えたどんぐりの苗は今どうなってるのかなあ。
4.17
どんぐりと山猫。主人公だけ人間(まとも風)であと動物とか植物とか滝を人間みたいな振る舞いする様子で描いてるの(馬車別当はもともと人間だが表現が多分あやうい)って、もしかしてだめ(差別みたいないみで)なのかな。。。でもたしかにそういうのをさけるためにもわたしも絵の中にあまり人間を描かないでいる、、が、わたしは人間、、、(こんぽんてきなもんだい)
だいたい怪獣の表現の起源もまずい。。。。怪獣にたいして私は他者という表現をつかいがちだけど、かつ自己投影だったりもすると思う。でもそれだけではだめなきもする。。。(起源というか怪獣の表現がはらむもんだいのこと)
この問題は前々から意識していて、人間を間接的にちらつかせた展開として、雪だるまがある、のだ。
4.20
今更なんだけど、サカナクションの「怪獣」をきいて、めっちゃよかった。
イイ!!!
4.25
メールとかLINEとかTwitterとか、日常の誤字がほんとーにおおい
朦朧
マリリン朦朧